概要

1889年(明治22年)に市町村制が施行され、行徳村・西品治(にしほんじ)村・田島村の三村が合併して「富桑(ふそう)村」が誕生しました。

それ以来、明治・大正・昭和・平成の戦乱激動の歴史と共に、富桑地区も地区の象徴であった松土手の老松が松根油採取のために伐採され、農業生産地だった田畑が宅地や道路になるなど、すべてにおいて大きく変わっていきました。

現在、富桑地区は、「交流・共感・共生の人権と福祉のまちづくり」を目指して、諸団体一丸となって地域づくりに邁進しています。


沿革

「富桑村」と呼称される以前は、「品治(ほんじ)郷」と云われていました。

1889年(明治22年)に、富桑村が誕生する以前の富桑地区は、1884年(明治17年)、連合戸長役場が設置され、「行徳」は瓦町・今町・東品治・南本寺などとともに、第四連合戸長役場に、「田島」・「西品治」は鋳物師町・川下町・新品治町とともに第五連合戸長役場に属していました。

1889年(明治22年)10月1日、全国に市町村制度が施行され、市町村長をもって管理されることとなり、その時、「行徳村」・「西品治村」・「田島村」の3村を合併して、「富桑村」が誕生しました。(この時、邑美郡鳥取町が独立して、鳥取市になっています。)1923年(大正12年)5月10日、岩美郡富桑村が鳥取市と合併。

当時の富桑村は、面積3,085㎡、戸数594戸、人口2,917人でした。鳥取市は、この合併により、面積10,796㎡、戸数6,915戸、人口38,573人となりました。


地理

富桑地区は、千代川下流の右岸沿いにあります。

東は、行徳「鳥羽屋橋」から下が一級河川になっている「狐川」を境にして、西は「千代川」を境にし、南の「千代橋」から、北の「八千代橋」までの地域に位置しています。

1958年(昭和33年)頃まで、富桑小学校の裏に出ると、あたり一帯に田園地帯が広がり、その中に南町や行徳が広範囲に見えていました。また、田島片原線の照明寺のあたりに出てみると、袋川の土手や丸山の山裾の民家、大森神社・西中学校・伊吹植物園などが見えました。その後、時代の推移とともに、道路整備や宅地造成が進み、それにつれて田畑がなくなり、民家が立ち並ぶことになり、すっかり様変わりしていきました。

現在、富桑地区には、幅員22mの西品治田園町線と、16mの富桑南町線が完備され、2009年(平成21年)には、宮下十六本松線が開通しました。
西品治田園線の側道には、ハナミズキが植えられて、季節には赤や白の花を咲かせ、道行く人を楽しませてくれています。

2007年(平成17年)からは、鳥取市100円循環バス「くる梨」が行徳地区に運行されて、地域の人から大変便利になったと喜ばれています。


富桑地区人権宣言

21世紀のキーワードは国際化、情報化に伴い「平和」「人権」「福祉」「環境」といわれ、とりわけ人権尊重は平和の基礎であり世界の人々の幸せと繁栄に欠くべからざるものとして共通の認識となりつつあります。
私たちの鳥取市富桑地区も古くから農業を中心として発展をし、歴史、文化を大切にしながら、心優しく人情あふれる地域として栄えてきました。しかしながら、「同和問題の解決は国の責務であり、国民的課題である」とした同和対策審議会答申から30年が経過した今日、部落差別をはじめあらゆる差別が厳存しています。この様な状況に鑑み、今まさに、富桑地区挙げて人権意識、人権感覚をさらに高め、部落差別をはじめ一切の差別撤廃に向けて、人権尊重の情報発信基地として求められています。
私たちの富桑地区の目指す21世紀の街づくりは、すべての人間が人として尊重され、すべての人間が人間らしく生きる街づくりです。
今、ここに富桑地区人権宣言を発し、交流・共感・共生をもってお互いの努力により被差別・加差別の立場をのりこえ、反差別社会の実現にむけて邁進する事を宣言します。

1996年6月8日

富桑地区同和教育推進協議会